風に立つライオン

映画『風に立つライオン』、皆さんご覧になりましたか。
原作は、さだまさしさんの歌で同等のタイトルの『風に立つライオン』。
ケニヤの熱帯学研究所に赴任した
日本人医師の生涯を描いたフィクションです。


子どもたちと一緒に観たのですが、
最初の戦争シーンが強烈で、子どもたちは続けて観るのを怖がっていました。
だんだんと、シーンが戦争で負傷した子どもたちを介護する方に移っていくと
自分たちとそんなに年齢の変らない子どもたちが遭遇している世界に圧倒されながらも、
映画にのめり込んでいっていました。


主役の島田医師が大学病院勤務時代、
膵臓がんの女性を診断するという回想シーンがあります。
ベッドも手術スケジュールも満杯の大学病院では
すぐに処置が受けられない患者と彼女のご主人に、
島田医師が個人病院での手術を勧めますが、
患者さんの側はかたくなに大学病院での手術を希望し、空きを待ちます。
しかし、その時期が来た時にはすでに手遅れ。
女性は間もなく亡くなります。


お通夜に出向いた島田医師を患者の夫であった男性は
玄関先で追い返します。
「あんたのせいだ。あんたが妻を殺した。」というセリフを投げつけて。


このシーン、一緒に観ていた子どもらも
「だって、それはお医者さんのせいじゃないでしょう。」と発言するほど。
島田医師が誠意を尽くしたことが伝わってくるだけに、
そんな不当な扱いを受けている彼を気の毒に思い、
ひどい言葉を投げつけた男性に対して怒りの感情が
飛ぶネコの中には沸き上がってきていたのでした。


そんな飛ぶネコの胸のうちとは裏腹に、
島田医師はこんな言葉を同僚の医師に語ります。
「僕の母親は、肝臓がんで亡くなった。
誰かのせいにしたくなるほど、悲しい出来事ってあるんだよ。」


「あ。。。。」
この言葉を語った島田医師に、わたしはある人の面影を重ねていました。
人類すべての苦難、苦痛、悲痛、道理に合わないことを
すべて背負って犠牲になられたイエス・キリストのことを。


E3-81-A8-E3-81-B6-E7-8C-AB

 

飛ぶネコは、自分にも子どもたちにも
処理しきれない自分の感情を人のせいにしたり、物にあたったりすることを
極力避けるように言い聞かせてきました。
感情に任せて怒りを露わにするか、向き合い、忍びながら受け入れていくか、
どちらを選ぶかは自分に任されていることを教えてきました。


そうは言っても、頭では理解しようと試みてはいるものの
処理しきれない悔しさ、悲しみ、怒り、というものが実在します。
自分がどうしようもなく惨めな状態になった時、
飛ぶネコはすべてを神様に訴え、受け止めていただくことで救われ、慰められてきました。
ゲツセマネの園で体中から血を流して苦しまれたイエス様のその背中に、
わたしの悲しみ、悔しさ、怒り、憤りを全部背負っていただいて。


「まことに彼はわたしたちの悲哀を負い、わたしたちの悲しみを担った。」(モーサヤ書14章4節)

 

E3-81-A8-E3-81-B6-E7-8C-AB1


『誰かのせいにしたくなるほど、悲しい出来事ってあるんだよ』
その後に描かれる島田医師の人柄は、この言葉を体現していました。
負の感情を受容する強さと、それを陽の感情に変えて解き放つ勇気が見えました。
そして、「がんばれ!」という言葉。
その言葉は人に使うものじゃなくて、自分に使うものだと。


映画を観終わった後、飛ぶネコの胸に残ったものは、背負いたくない使命感でした。
イエス様にはできることだけど、自分にはできないこと。
でも、クリスチャンとして、キリストのような人物になるよう期待されているのであれば、
もしかしたら、彼のような使命を負わなければいけないこともあるのかもしれない。。。。


パンドラの箱を開けてしまった、と思いました。
島田医師は『誰かのせいにしたくなるほど、悲しい出来事ってあるんだよ』、
と言いながら、自分と相手の悲しみを全身全霊で受け止めていたわけで、
そんな覚悟をして生きていく人生、わたしに務まるだろうか。。。。
もしかして、実は、こういう大事なことを
子どもたちに教えなければならないのかもしれない。。。。。
そんなことを考えていたら、大粒の涙があふれてきていました。


飛ぶネコが島田医師のような生き方を選ぶには、相当な覚悟がいります。
それでも、誰かのために、もう少しがんばる勇気を持ちながら生きたい、
そう思わせてくれた映画でした。

 

この記事をシェアする
Share on Facebook
Facebook
Pin on Pinterest
Pinterest
Tweet about this on Twitter
Twitter
Email this to someone
email

コメントを残す