蝉の意外な置き土産

9月になりました。

 

蝉の声がパタリと止みました。

 

大音響サラウンドシステムで
空気の隙間を埋めつくしていたあの声が
完全に消滅し、
もはや一匹たりとも声をあげていません。

 

もう夏が終わってしまったことに
気づけなかった蝉なんているのでしょうか。

 

仲間が生涯を終えていく中、
なんとか生き永らえようと必死になっている蝉なんて
いるのでしょうか。

 

なんて考えていたら、
わたし(人間)の考えることなんて、浅はかだな、
蝉の方がよっぽど賢いかもと思いはじめました。

 

なぜかって、
彼らは自分の寿命と生涯を受け入れているんですよね。
おそらくそれでいい、のでしょう。
もがいたり、不平を言ったりなんてことはないのでしょうね。

 

「俺たちの季節は終わった」
と宣言でもするリーダー格がいるのでしょうか。
それとも、その時期を知っているのでしょうか。

 

わたし(人間)にも空気を感じ取る触覚
(人間だから触覚はないけど、頭から出ていて、
上から降ってくるものを受け止める物のような)
なんかがあったらいいな、とか、

 

季節に敏感になる五感をもっと
彼らのようにとぎすませたいな、
なんて彼らの高度な感覚を羨んでみたり。

 

もしかしたら、過去には
そういうものを持っていたかもしれないのに
便利さと引き換えに、
失っていないだろうかと考えてみたり。

 

耳をつんざくほど主張していた蝉たちがいなくなった今、
遊歩道は別世界になってしまって、
秋の夜長の帰宅路は
代わって鈴虫がノスタルジックさを助長する挿入歌を唱えています。

 

10か月後、蝉との再会は、
蝉をリスペクトする気持ちで迎えられるかもしれません。

 

相手を知れば、自分も変わる。
こんなことを蝉から教わるとは思ってもみませんでした。

 

夏を精一杯生きてくれて
ありがとう。

 

 

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