結構簡単なように見えて、難しいと私は理解してます。そして、世界一やりがいのあるプロジェクトだ!と。
「結構簡単」と思うのは、セラピストとして小児科精神病棟で働いていた経験から。
そこに来る子どもは90%以上が、虐待、育児放棄など、それぞれに重度、軽度は違えど何らかの心へのダメージを親、または保護者から受けてきた子達。
そんな子達も、小学生ぐらいまではほとんどが、
「お母さんと離れたくない。うちに帰りたい。」と泣き叫びます。
彼らにとっては世界でたった一人の母親だからです。
「あんな劣悪条件で育てられても、母親の元に帰りたいのか。。。」とよく思ったものです。
極端な例でしたが、この経験から「私の子どもも、私がそんなに頑張らなくても、私を愛してくれるんだろうなー。」という、時に恐ろしい、時に平安を心に与える思想が私の根底にあります。
「難しい」と思うのは、母親業は「成功」が測れない、そして、果てがないからです。
もっというと、Aさんでは成功した育児法もBさんがやったら家庭崩壊の危機?!なんてこともありえるわけで、「数多とある情報から何が一番うちの次男に合ってるの?」なんていう、気が遠くなるような質問も出てきます。
実際、私も育児法の書籍を何冊か読みましたし、未だに読んでいます。笑。育児にまつわる講演会もしました。そこで、分かったことはやはり、ケースバイケースだということ。
それでも、やはり、声を大にして言いたいこと、
それは、
育児書のバイブル的存在は、正にバイブル。
私たちの教会では、バイブルとしてモルモン書、聖書、教義と聖約、高価な真珠の四書を使っているので、そこから得られるイエス・キリストの教えが最高の育児書です!!!
と言いたいんです!!
胸を張ってこう言えるようになるのも、私の挑戦の一つ。
ここで、今日の私の奮闘ぶりをみなさんに少し紹介したいと思います。
「信じて待つ」をモットーにする森のようちえん、森のわらべに今日は体験で行ってきました。
子どもの自ら育っていく力を信じ、子ども主役で親は忍耐。
今日の禁句は「早く」「あぶない」「きたない」。この三つの言葉を子どもに言わないこと。
雨の中、山道の散歩。しかも、道なき道を傾斜で降りていく場面もあって、正直、難しかった!
「あぶない」って子どもに言わないようにするの(笑)。
それでも、天を見上げると、宝石が木々を飾っていました。
森のわらべの園長浅井智子さんは、なんと私と同じモルモン。彼女と初めて出会ったのは教会でした。
彼女が、最後にこっそり私に教えてくれました。
スタッフの中に同じ宗教の人はいないけど、やっていることはイエス・キリストの教えに沿ったもので、感謝や愛、温かさなど福音の土台になるものは皆にも伝わってきている。と。
どどどどーっと私の中に入ってきた「安堵感」「共感」。
さらにはこんな聖句まで:
さて、御言葉を一つの種にたとえてみよう。さて、もしあなたがたが心の中に場所を設けて、種をそこに植えるようにするならば、見よ、それがほんとうの種、すなわち良い種であり、またあなたがたが主の御霊に逆らおうとする不信仰によってそれを捨てるようなことがなければ、見よ、その種はあなたがたの心の中でふくらみ始めるであろう。そして、あなたがたは種がふくらみつつあるのを感じると、心の中で次のように思うであろう。『これは良い種、すなわち御言葉は良いものに違いない。これはわたしの心を広げ、わたしの理解力に光を注ぎ、まことに、それはわたしに良い気持ちを与え始めている。』(アルマ32:28)
そうなんです、「種」なんです。良い種が心を広げ、理解力に光を注ぎ、良い気持ちにさせてくれるのです。 力を加えて強制的にパンッと咲かせる「クラッカー」ではなく、忍耐して、太陽の光や水を少しずつ取っていった「種」が時間をかけて膨らむんです。
先日、娘とした会話を思い出しました。
私:「あれ?また背が伸びた?どうやってそんなに大きくなったの?」
2歳の娘:「そとで水であそんでたら、ぬれて、大きくなったの。」
私:「?そうなんだー。。。」
その時は分からなかったのですが、後から、娘が世話をしているお花たちがそうやって育つということに気づき、娘も植物と一緒の成長の仕方だと思ってるのだなーと心の中で微笑みつつ、でも、実際合ってるかも、と感銘を受けた私。
娘という種が育ち、芽を出し、花を咲かすのに、母の私は良い土を準備し、水をあげ、光に当て、「信じて待つ」をしたいと思いました。
今まで「信仰について」と読んでいた聖句から、育児の知恵をいただいた瞬間でした。
みなさんにとってのバイブル、そこからどんな育児の知恵を学んでいますか?