「庭に蟻さんが楽しめる遊園地を作りたい!」
そう言い出した3歳の子供に、思わず夫婦で笑ってしまいました。
どんな設計にしたいのか、「絵に描いて表現してごらん」とお願いすると、
夢見る少女は楽し気に、壮大なアトラクションパークを表現してくれました。
おやつにカップゼリーを食べては、容器を洗い、庭へと持っていく子供達…
傍から見ると庭がゴミ屋敷へと変わっていく樣。
大掛かりなプロジェクトは1日2日では終わらず、
何日も何日もその「ゴミ」を持ち出しては、雨に打たれ、風にも打たれ、
異様な庭の光景を創り出していきます。
…数日後、当然ママは黙ってはいられません。
菊地寛氏の名作に『恩讐の彼方に』という小説があります。
江戸時代に市九郎という下郎が主人の寵愛(ちょうあい)の妾(めかけ)と恋に落ちいり、
それを主人に見つかり防衛の末、主人をあやめてしまい、その妾と蓄電します。
人殺し稼業に落ちた本人は、やがて自己嫌悪に陥り、寺に救いを求め「了海」と改名しました。
救済の大業を果たすべく、あちこちと行脚した後に、ついに九州の耶馬渓(やばけい)に辿り着き、
その岩場の絶壁から毎年多くの人々が落ちて非業の死を遂げているのを目撃します。
「自分が求め歩いていたものはこれだ。1年に10人を救えれば、100年、1000年と経つうちに、
1万人をも救うことができる…」と、人々が大絶壁を通らないで済むように、
岩盤をくり抜き安全な道を掘ろうと一途に実行に着手しました。
村人は「3町をも超える大盤石を切り抜くなんて狂人だ」と笑い、了解を迫害し始めます。
掘り続けた洞窟は1年経って1丈(約3メートル)、
3年が過ぎると嘲笑は同情へと変わり、
9年目にして22間(約40メートル)測るまで掘ることができました。
そこでようやく村人は、了海が成しえる事業の可能性に気が付きます。
数人の石工が事業を助けるために雇われ作業を開始しますが、
翌年に絶壁全体の4分の1も作業が進んでいないことを知ると、落胆し、
再び村人は了海を狂人にし、離れていきます。
しかし18年が経ったとき、もはや了海の仕事を疑う人は誰一人いませんでした。
ついに中津藩の奉行が石工30人を差し向け、
21年目にして(1746年9月10日に)「青の洞門」が開いたのです。
幾度の波乱を乗越えた末の「蟻さん遊園地」の完成。
何匹かの蟻が、子供たちが手がけたパーク内を行き来する光景は、まさに感動的でした。
「蟻さん達、とっても喜んでいるね!」 にっこりと微笑む子供たちの表情と、
一見無駄だと思われるプロジェクトの創造力に、 パパもママも完敗です。